青少年喫煙の変遷と出前禁煙教育(2022年6月号)

38年間の取り組みを振りかえる
青少年喫煙の変遷と出前禁煙教育
〜1300校の中・高校を訪ねて〜

 1985年、日本専売公社が日本たばこ産業(JT)に民営化されると同時に米タバコ会社が自由化となって、あらゆるメディアでのタバコCMが氾濫し、それに伴って未成年者の喫煙が激増、学校現場は荒れに荒れた時代となっていました。

 この困難な時代に、ボランティアで禁煙教育に取り組んだのが、平間敬文医師を中心とした歯科医師・学習塾の先生たちで、平間病院が休診の毎週木曜日にスライドの機材を積んだ車で学校を訪ね始めました。これまでに訪ねた学校は1300校となり、教えた生徒の総数は50万人を超えています。

 長年にわたるこの取り組みに対し、2005年10月、平間氏は尾辻秀久厚生労働大臣から第一生命主催の「保健文化賞」を受賞しています。「無煙世代を育てる会」の長年にわたる取り組みを振り返って、平間医師にエピソードを交えた生々しい報告を頂きました。(渡辺文学)

学校を変えたタバコ規制

無煙世代を育てる会代表 平間 敬文


 学校での出前禁煙教育を始めて38年、いつの間にか訪問校の校長先生がすべて年下になっていたのに気づかずショックを受けてからもう十年経っていた。
 話に出せないくらい荒れ狂った中高校生喫煙に翻弄され、絶望的な戦いに明け暮れた昔日を思うと、とにかくここ5〜6年の学校の変わりようは劇的だった。
 学校からのお呼びが急に途絶え、講演のない休診日はしばらく記憶になく正に新鮮だった。
 あまりの変化で毎年定期的に訪れていた中高校を尋ねてみると、生徒指導の議題に喫煙問題が全く話題に上がらず、スマホやSNS、異性交遊問題などで、タバコは忘れていましたとのこと。
 これがもともと安定基調の学校のみならず、手におえないレベルの中高校での変化なのである。たまに行く落ち着きを取りもどした教育の現場での講演は、ひたすら心地よく感じられた。

■ 校内暴力や学級崩壊が社会問題に

 渡辺文学さんからそろそろ振り返ってみてもいいころではないですか、とのお声掛けをいただき、自らの経験に絞って今昔を語ってみたい。
 私たちが禁煙教育の世界に足を踏み入れたのは1985年、中高校の校内暴力や学級崩壊が大きな社会問題になり苦々しく思っていたころだった。
 友人の高校教師との酒席の会話で「野球部の顧問をしているが、いい素質のあるやつがタバコを覚えるとすぐ練習しなくなりダメになっていく」という話を聞いて、ハツと思い当った。
 私自身の経験で、中学時代とてもかなわない優秀な友達が何人もタバコで生活が荒れ、急に落ちこぼれていったこと、私が禁煙した時のあの思い出したくもない厳しさつらさが鮮やかに蘇えり、ニコチンの禁断症状は子どもたちにとんでもない影響を与えているのではないかという気づきが容易に確信となった。
 当時タバコは大人に許された嗜好品、今どきは子供が吸っても仕方がないだろうという考えが80年代には疑いなく容認されていたように思う。
 ニコチン中毒という言葉もいつの間にか抹殺されて、薬物であるとは感じていたものの、自分にはそう断定して言える自信はなかった。
 遅まきながらものぐさ者の勉強が始まった。実験動物研究所の依存性薬物の第一人者である柳田知司氏(当時はタバコ産業寄りではなかった)に筑波大山下衛教授からつないでいただいて「タバコ・ニコチンは麻薬の類(たぐい)といっても差し支えはないでしょうか」とぶっつけで聞いたところ、「それはそうでしょうね、麻薬の指定は受けていませんから麻薬とは言えませんが‥‥」との言葉をいただいたのが大きな自信となり、以後の講演論旨の中核となった。

■ リレー出前講座始まる

 飯村省一教諭の努力で、近くの高校での講演を皮切りに7月以降で5校、医師2名、教師1名で3人がかりのリレー出前講演を始めた。
 翌年は口コミで16校、喫煙が荒れ狂う学校環境の最大原因と考えた私たちが、手をこまねいて困っていた学校側に受け入れられたのだろう。
 以後90年には高校だけで年間36校となり、多い時は休診日の木曜が高校だけで50校の講演で完全に埋め尽くされた。こんな慌ただしい生活がその後30年も続くとは想像もしていなかった。
 荒れた学校は例外なく喫煙が蔓延した状況にあり、当時は「男子生徒の7割は吸っているんじゃないですか」という話があるくらいの浸透ぶりだった。学校の廊下に当り前のように吸い殼が捨てられており、番長以下暴力的な非行グループが複数作られ大手を振っていた。
  全校同時講演を原則にしていたが、荒れた生徒たちは体育館に収まらない騒ぎで、教師たちにはどうにもならないことが度々あった。
  「先生方、始めちゃってください。静かになるかもしれませんから…」「物は飛んでこないと思いますが…」こんな状態でも、講演に入ると子供たちは恐いもの見たさか、吸っている自分に不安があるのか割合簡単に静かになる。
  「この学校に来て、静かに話を聴く生徒を見たのは初めてです」とお褒めの言葉を頂いたりしたがなんだか変な気分でもあった。

■ やりたい放題のタバコ宣伝・広告

 講演がうまくいったときには「学校が変わりました」とまで喜ばれたことも多かったが、取り巻く社会環境、特に家庭でのひどい喫煙状況には全く改善傾向が見られず、限りない挫折感を味わうばかりだった。
 依存症となった子供たちは、毎日タバコの禁断症状のイライラと戦うために学校に来ているようなものだったろう。大人たちへの反抗のシンボルとして裏打ちされたタバコは、1987年の洋モク自由化以後、テレビ、映画、ビルの看板、雑誌へと 拡大、まさに爽やかで必須なグッズとして子供たちに急激に浸透していった。
 特にテレビはドラマにせよバラエティー番組にせよ、今どきの子供たちはタバコを吸うくらい当たり前といった風潮を積極的に後押ししていた。
 隣県の生徒指導教諭の大きな研修会で「タバコは1日中一定の時間ごとに何回も吸引しなければならない厄介な薬物(ドラッグ)なのです」と話したところ、満場に笑いが巻き起こったのもこのころである。
 休憩中に「最近の若い医者は面白いこと言うねえ」などという会話を小さくなって聞いていたが、学校内のタバコを抑えきれば、現場は絶対に落ち着いたものになると強く断言すると、さすがに静かになった。
  「麻薬のたぐいのニコチン中毒・禁断症状」が教育の中で理解され、薬物との戦いとして自身の禁煙を含めて、まともに対応されるまでには先が長いなあと思い知らされた。
 この時期の洗練されたテレビCMをバックにしたタバコメジャーの販売促進の圧力はすざましいもので、私たちの活動が蟷螂の斧に思えて心が折れそうになることも度々だった。
 しかし逆にどうにもならない憤りや、やり場のない怒りに激しく心を掻き立てられて、これが私たちのエネルギーの源となったのも事実である。
 教育現場からの切なる要求には、悲鳴に近いものがあり、手を引くことなど到底できなかった。
 講演にはほぼ必ず数組の「壊し」が入る。奇声を上げて注意を無視して雑談したり、じゃれあったりもする。名指しで怒鳴ったり、いけないことだがレーザーポインターで攻撃したりもした。話を中断して十数秒待つのも効果的だった。
 タバコを吸うことを、ことさら小馬鹿にした講演への反発もあったのだろう。今振り返れば校内暴力と喫煙のあらしが吹き荒れた80〜90年代の真っただ中で、1校1校すべてが出たとこ一発勝負といった出前講演であった。

2005年10月5日東京・ホテルオークラで平間氏が受賞した「第57回保健文化省」の賞状/(当時の厚生労働大臣は尾辻秀久議員でした)

■ 中学校からも講演の要請が

 受動喫煙被害が広く知られ、社会変化が確実な流れとなり、1998年には電波媒体のタバコCMが実質禁止となり「健康日本21」の成立で、目の前が明るく開けていく思いがしたが甘い話だった。
 主力にしていた高校が95年ころいったん落ち着いたように見えたころ、また中学が急激に荒れ出して、多数の講演要請を受けるようになった。
 中学生には退学制度がないため、ルールとしてはほとんど何の歯止めもない。「1日にバケツ一杯なんですよ」と吸い殼を実際に見せられた時は、まさに危機感があった。
 70年代の荒れ狂った時代の卒業生が親(特に母親)になったせいだろうと確信している。
 中学校の講演の事前アンケートで「吸わない」と答えた13,794名のなかで、母親が吸う家庭は20%、「吸う」と答えた447名の中学生の母親の喫煙率は、なんと54%に上った。父親の喫煙率には差がなかったので、母親の影響の大きさが窺い知れたが対策はない。 PTAとの合同講演でも、大半の喫煙母親はあからさまに逃げて、決して聞こうとはしなかった。「無知なるものは永遠に支配される」という言葉を実感させられた。
 同時に気になったのは教師の喫煙率が低下しないことで、特に生徒指導に関わる体育会系教師の喫煙率がとても高かった。体育館に入るのに体育教宮室を通ることが少なくないが、山盛りの灰皿の臭いにはいささか腹が立った。
 講演はずっと生徒半分、先生半分で聞いてもらうつもりでやっていたが、振り返ってみても先生の喫煙率が生徒とほとんど変わらないのは残念だったし、ことの厄介さも身に沁みた。

■ 流れが変わった「健康増進法」

 肌感覚で日本社会がタバコに対し抑制的になったのは2000年に成立した「健康増進法」だったと思う。受動喫煙対策が優先的に取り上げられ、公共の場の対策が着実に進められることとなった。
 2003年には不特定多数が利用する施設の完全分煙化が求められ、交通機関や学校、公的施設などの受動喫煙対策が大きな広がりを見せた。罰則はなくても、法律というものの底知れぬ力を感じた。
 受動喫煙被害を社会が受け入れ、喫煙抑制が大きなトレンドとなる手ごたえを感じたのはこの前後のことである。その社会変化が学校で感じられるようになるまでにはなお10年余を要した。

■ 効果があった「タスポ」と「値上げ」

 AV機器の進歩と講演内容の画像化、歯科の先生の参加により、与えるインパクトが平準化され、多少条件の悪い体育館でも騒がれることはなくなってきた。 2012年ころには高校生の喫煙が急激に減少し始め、中学校にも及んだ。
 大人にとって2007年のタスポは不評だったものの、子どもたちには明らかに効果があった。
 さらに2010年の100円値上げは、確実に追い打ちの効果があり、ゲームやスマホ代に事欠く子供たちにとっては大きな影響だったと思う。
 学校敷地内禁煙になったころから、講演の事前アンケートでも喫煙率に極端な低下がみられ、全校でも二桁にならず、アンケートを取ることにあまり意味がないほど急激に減ってきた。
 当時、教師の喫煙率もかなり減少していたが、特筆すべき変化は、各学校に必ずいた番長が消えてしまったことである。
 タバコがカッコいいものでもなくなり、規範外行動である喫煙習慣を共有しなくなったことで、非行グループが絆を失ったためと考えている。
 これから加熱式タバコが、あの手に負えない時代の状況を作り出すことはないだろう。タバコという薬物を制すれば、学校は落ち着くというのが私たちの論旨の中核だが、いまの教育現場を見ると少し誇らしい気分になる。
 私は、人間は自由であるべきだと考えている。とらわれるものが少ないほど自由は身近なものとなる。これからの若い世代が、ニコチンごときに人生を左右されるのは、まさに御免こうむりたいものだ。

【ひらま・たかぷみ=全国禁煙推進協議会代表/日本禁煙学会理事】



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